江戸参府の行列図

オランダ王立図書館(KB)の電子図書館(het geheugen van nederland)で"Hofreis"をkey wordにして検索すると、hofreis関連のVisual Material一覧(43種類)が表示され、閲覧することができる。

http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/zoekresultaten/pagina/1/Hofreis/%28Hofreis%29/&colcount=0&wst=Hofreis

その中に「江戸参府行列(タイトル:Stoet hofreis)」のデジタル画像が3枚あった。

最初はケンペル、2枚目は川原慶賀、3枚目は作者不明。

それぞれ、画像の横に「opslaan(英訳:save)」とあったのでクリックして画像データをダウンロードした。





http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/items/KONB11:2110A18-NA-P-306-GRAV/&p=2&i=17&st=Hofreis&sc=%28Hofreis%29/&wst=Hofreis

画像
Author: Engelbert Kaempfer (1651-1716)
Copyright: Koninklijke Bibliotheek




http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/items/KONB11:1-4488-33/&p=2&i=18&st=Hofreis&sc=%28Hofreis%29/&wst=Hofreis

画像
Author: Kawahara Keiga
Copyright: Rijksmuseum voor Volkenkunde




http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/items/previous:next/&p=2&i=18&o=1&st=Hofreis&sc=%28Hofreis%29

画像
Author: unknown
Copyright: Koninklijke Bibliotheek






エンゲルベルト・ケンペル@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB

エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。


川原慶賀@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E6%85%B6%E8%B3%80

川原 慶賀(かわはら けいが、天明6年(1786年) - 万延元年(1860年)以降)は江戸時代後期の長崎の画家である。出島出入絵師として風俗画、肖像画に加え生物の詳細な写生図を描いた。名は登与助(とよすけ)、種実。号は慶賀、聴月楼主人。別姓に田口。息子の川原盧谷も父に学び、洋風画を描いた。

経歴

長崎の今下町(いましたまち、現・長崎市築町)に生まれる。父・川原香山も町絵師であった。

当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。出島オランダ商館への出入りを許され長崎の風俗画や風景画、出島での商館員達の生活等を描いた。

文政6年(1823年)にシーボルトが商館付医師として来日した。慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描いた。また、文政9年(1826年)のオランダ商館長の江戸参府にシーボルトと同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描いた。これらに使用された紙、顔料、支払われた給与などはオランダ政府から支給され絵図のほとんどはオランダへ発送された。

文政11年(1828年)のシーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責された。シーボルト追放後、シーボルトを慕う人々によって煙草入れがシーボルトの元へ送られた。この煙草入れの蓋は、慶賀が描いた楠本滝と楠本イネの肖像画が表裏に螺鈿細工されている(「シーボルト妻子像 螺鈿合子」)。その後もシーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルガーの指示の元、同様の動植物画を描いた。

天保13年(1842年)、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受けた。

長崎を追放された慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かった。脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始めた。

その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(とうらんかんず。出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。

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